インタビュー2: 向井知子01

本公演で、映像演出を担当している向井知子氏へのインタビュー。独立した映像と音楽を組み合わせて作品としているのは、どういう意図があってのことなのか。作家ではない相手との対談形式で、具体的な説明を交えて語っています。

向井知子インタビュー01

向井:『迷宮の森』という曲は、2002年に、伊藤さんが埼玉県立近代美術館の委嘱制作として作曲されていたものなんです。埼玉県立美術館の公園にある、橋本真之さんの彫刻作品「果実の中の木もれ陽」という彫刻作品を見た伊藤さんが、その作品にインスパイアされて『迷宮の森』をつくったそうです。その際に、「くねくねとして、穴の開いた金属の球体が有機的に絡み合う様は、どこに繋がっているかがわからず、引きずり込まれるようなな印象を受けた」とおっしゃっていた。それに「これは幸せなものである」とも。

島崎:迷宮って、あまりいい意味の言葉に思えないですが…。

向井:そうですね。だから、わたしも最初は暗いイメージというか、ラビリンスで迷ってしまうような感じだと思いました。でも、伊藤さんからお話を聞いて「有機的なうねり」という言葉から、根っこが地面を這うように広がり、苔むした生命感あふれる森を想像した。これは、わたしの知っているこの周辺、つまり、関東や信州の森ともまた違うな、と思ったんです。新緑の季節にむせる感じに近いような、生命感みたいなものって言ったらいいのかなあ。

島崎:それはちょっとみずみずしい感じがしますね。

向井:伊藤さんがどのような森を見ていていたのかを想像したときに、猛々しいくらい生命感のある森を見に行かないと、と思ったんです。ふと頭に浮かんだのは屋久島でした。宮崎駿の『風の谷のナウシカ』や、『もののけ姫』で描かれる生き物や植物の持つ生命感も、それに近いかもしれない。実際、屋久島に行くと決めたあとに、『もののけ姫』のモデルになった自然が屋久島であることに気がついたのですが、いずれにしても、それらの森に通底する自然の原像を肌で感じられる場所に行かなくてはいけないのではないかと思いました。

島崎:『迷宮の森』というタイトルを聞くと、どうしても、自分が迷うって感じがしてしまうんですね。わたしの視点で「今生きているわたしが、森に行って、迷う」というように。最初にいい意味に思えないと言ったのも、そう思ったせいです。でも、そういうふうに言われると、根っこのようなものが複雑に絡み合って、1個のものをつくり上げていることが「迷宮」で、そういう事象がたくさんあるような場所を指すのかもしれないなという感じがしますね。

向井:生態系そのものですね。実際、屋久島に行って印象的だったのは、単体ではすでに死んでしまっているような老木に、別の植生が育っていたこと。老木自体は屍であるものの、屍そのものが母胎というか、生の寝床だと感じたんです。。実は屋久島には縄文時代から人間が入っているのですが、有史以来人間が伐採を繰り返そうがしまいが、自然にとってはどうでもよくて、勝手に生の寝床を育み続けている。そういう意味では、生態系に本来死というものはなくて、死と思われているものも、すでに生であるという自然の力強さを感じました。実際、迷宮という概念には、古来より宇宙的秩序、大地の母胎といったことと同一視する考え方もありますし。

島崎:それが、『迷宮の森』の中で、緑をメインに使用しているところですよね。色々な写真を素材として制作していると思いますが、全部が屋久島で撮ったものなんですか?

向井:素材にはそのほかの場所のものも多数使用していますし、全部が屋久島の写真ではありません。屋久島を描写しようとしたわけではないです。所々、スイスの建築家であるピーター・ズントーがドイツ・ケルン郊外に建てた聖ブラザー・クラウス野外礼拝堂から着想を得ています。そこは、菜の花畑の中を抜けて行った先にポツンと建つ、小さな礼拝堂です。外から見ると、ねじれた幾何学形態の塔のような形で、三角形の入り口から低い天井の通路を通り、礼拝堂に入る。すると太くて背の高い大木の幹の中に包まれるような空間が現れる。木の幹をコンクリートに押し付けて燻したことで、幹そのものの形状が礼拝堂の内壁となっているんです。天井はなく、涙のような形で抜けていて、空が見える。太陽の光も雨もそこから降り注ぐのですが、それは自然の慈愛をそのまま受けているような、すごく特別な空間になっている。伊藤さんが「これは幸せである」という言葉をおっしゃった際に、何を見ていたのかを考えた結果、この場所に繋がったんです。どこまで広がっているかわからないよう菜の花畑を抜けた先に、人間が自然の中に見ている慈愛を感じさせる礼拝堂がある姿も、幸福なのではないかと。

島崎:別に作品の中で、誰かが死ぬようなことは語られているわけではないんですが、わたしは作品のその部分を見て天国をイメージしましたね。見た人によって、どう感じるは様々だと思うので、他の人がどう思うのか気になるところです。

向井:死は意識していないけれど、生と死は裏表ですから。『迷宮の森』の中で、ここ部分だけは人間の視点に立ってつくっているかもしれないです。

島崎:それは、向井さん自身がそうしようとして、その部分には視点をつくったんですか?それとも曲調的にそう思ったんでしょうか?

向井:曲調から解釈するというよりも、伊藤さんの「通り抜けていく」「どこに繋がっていくかわからない」という話から、頭の中にそういう森を「見ている」んだなって、そう思ったんですね。

島崎:さっきの「迷宮」のときもそうでしたが、作品を拝見すると、自分がどうしても傲慢なことに気づくんですよね。いつも「わたし」が入ってきてしまう。迷宮の意味を考えたときも、完全に人間である「わたし」が見た迷宮をイメージしていましたし。でも、向井さんの作品も、伊藤さんの作品も、人間の視点で別につくっているわけじゃない。向井さんが写真を撮ったり、伊藤さんが曲をつくったりしているので、それぞれの視点はもちろん入っているとは思いますが、作品としてそこを見せたいわけじゃないんですよね。ただ、わたしを含めた普通の人というか、映像や現代音楽に精通していない人って、そのせいで「わからない」と思ってしまう。だって、映画や一般的な音楽って人の視点が必ずと言っていいほど入っているし、そこに共感したり、反発したりすることで、感想を持つことが多い。自然そのものに寄り添うとか、相手の見ていたものを想像するって、どうしても馴染みがない行為だと思うんです。子どもはきっと、綺麗なものを素直に綺麗と感じる。でも、やっぱり大人になって、自分という存在を意識してしまうと、どうしても自分たちを主語につけて考えてしまいがち。だから、こういう、想像できる範疇を超えたものを見たり聞いたりすると、もはや当たり前すぎて普段意識すらしない「わたし」はこう見て、こう聞いて、こう感じているみたいなことを、意識させられますね。

向井:この映像を周りの人に見せた際、「良い意味で視点がない」「視点がどこにあるのかわからない」と言われたんです。例えばサロンでタブローに囲まれ、焦点がぼけたまま、ぼーっと風景を眺めるように、イメージを並置しています。確かに、周りの人からもそう言われたように、良い意味で視点をつくっていないのでしょうね。

島崎:じゃあ、今回の展覧会で展開する作品はすべて、意図して視点のないものとするんですか?

向井:それは…、つくってみて考えます(笑)。ただ、本当は写真を素材とした作品だけではなくて、映像をつくり始めた頃のように、再びアルゴリズムでつくってみたいとも思っているんです。『響きの森へ』のように、伊藤さんが具体的な森を思い浮かべていないものもある。「響き自体が森である」という言い方をされていて、先日、伊藤さんに『響きの森へ』の楽譜を見せていただいたんですが、その構造そのものが視覚的にとても綺麗だったんです。最終形態をどうするかはわからないですが、部分的には、他の2つの映像のようなレイヤーで重ねていくというよりは、アルゴリズムから生成される構造で、森を描いてもいいのかもしれないと思っています。他とのコントラストから言うと、白やブルーや、水や空気に近いようなものがあるといいのかなあって。

島崎:伊藤さんにも、向井さんにも、作品に対するイメージカラーがあるのって、わたしはすごくおもしろいなと思うんです。「わたしはこの色をイメージしている」ということを、相手に伝えたりはしていないんですよね。

向井:していませんね。今のプロジェクトって、2人とも色彩をものすごく意識しているんです。伊藤さんにも、もちろん作品ごとにイメージしている色はあるのでしょうけれど、自分の解釈と違っていて構わないと思っていらっしゃるそうです。だから、わたしに対して、音楽に寄り添ってほしいなんて思っていらっしゃらない。それよりも、それぞれ独立した作品として成り立っていることで、お互いのコントラストが、何かおもしろいものをつくるんじゃないかって思っているでしょうね。

島崎:それって、お2人の対談で伊藤先生がおっしゃっていた、「実はいい映画って、独立していいものを音楽として映画に入れることで立体的に見せている」ってことと繋がると思うんです。例えば、音楽に映像が寄り添っていくと平行線が2本並んでいるみたいな感じなのに対して、向井さんと伊藤さんがやっていることというのは、膨らみを持たせるところがあるんじゃないかなと思っていて。映像だけ、現代音楽だけだったら、ちょっと距離を置いてしまう、わたしのような人は、それが2つ組み合わさるとさらに距離が遠のく(笑)。だって難しいものが2つ重なったら、より難しくなりそうじゃないですか。でも、実際に組み合わさったものを体感したら、1個ずつのときより親しみやすい感じがした。褒め言葉にはならないかもしれないですが、単体のときより短く感じたんです。

向井:それは、相手の考えを解釈をしようとするのではなく、どういう空間を立ち上がらせたいかを考えていることを大事にしているからではないでしょうか。それぞれ音楽の空間であったり、映像の空間であったりするわけですが、そこに立ち上がってほしい空間像みたいなものが、ちゃんと立体的に共鳴していればそれでいいという感じですね。。

島崎:1個のものをつくろうとしているわけじゃないんだろうなと、話していて思いますね。それぞれがいいものをつくった結果で、お互いをよく見せられれば最高だよねと考えているような感じがします。

向井:だから、重要だと思っているのは、どっちかにどっちかをつけたということではなくて、それぞれの作品が単体でも独立して、成り立つものであること。それが一緒になったときに、上手いコントラストが出てくるし、単体のときとは違う印象になる。独立したものをつくっているにもかかわらず、わざわざ2人でやることには意味がある。映画のサウンドトラックを聞いたり、舞台やオペラの音楽に合わせた映像部分を切り取ったりしたときとは、違うものをお見せできるんじゃないかなあ。

インタビュアー:島崎みのり
音楽の展覧会実行委員会マネジメント補佐。普段は編集を主な仕事とし、カタログや美術館図録の制作を手がける。日本大学芸術学部デザイン学科卒。

写真:矢島泰輔

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